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春日井の街はどうつくられた?|川・用水・ニュータウンからたどる地形と暮らしの歴史

春日井の街はどうつくられた? 川・用水・ニュータウンからたどる地形と暮らしの歴史
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春日井の歴史を、いつもの景色から読む

同じ春日井なのに、川沿いの町と、平らな住宅地と、坂の多いニュータウンでは、なぜ景色も暮らしも違うのでしょう。

田畑を耕すために水を引き、工場に通って働き、電車で勤め先へ向かう。人々の仕事や家族の暮らしが変わるなかで、春日井には違う成り立ちの街が重なってきました。川と用水、道とニュータウンから、その暮らしの変化をたどります。

ガル太ガル太

春日井駅のあたりとニュータウンって、同じ市なのに景色が違うよね。

おカンおカン

そうやね。ニュータウンの坂も、平らな道の先の小さな坂も、もともとの地形と関係があるんよ。

まず、春日井のどのあたりの話?

庄内川は市の南側を流れ、その北側には台地や段丘が広がります。さらに東部へ向かうと、丘や谷のある風景になります。まずは下の概略図で、本文に出てくる場所の位置関係をつかんでみてください。

北庄内川(流れの形は簡略化)勝川春日井神領高蔵寺名古屋側から → JR中央線1川沿いの町2鳥居松・梅ヶ坪周辺3高蔵寺ニュータウン
本文に登場する場所の大まかな位置関係です。縮尺・川筋は簡略化しており、市境や地形の境界を示す地図ではありません。各駅の名前はJR中央線の駅を指します。
実際の場所を地理院地図で確かめる

移動・拡大して、ご自宅や気になる町の位置を探せます。

出典:国土地理院「地理院地図」。指やマウスで移動・拡大できます。地図を大きく開く →

地図の目印になるJR中央線は、名古屋側から勝川・春日井・神領・高蔵寺の順に駅があります。ニュータウンは高蔵寺駅の北側です。
このあと登場する三つの風景を、図にするとこうなります。

① 川沿いの低い土地

川の水や運ばれた土と関わってきた場所。庄内川・支流沿いの平地など。

② 台地・段丘

平らな土地が、坂をはさんで何段も続く場所。鳥居松・梅ヶ坪周辺など。

③ 東部の丘陵

尾根と谷のある土地。高蔵寺ニュータウンでは、丘を造成して街をつくりました。

地形の違いを示す模式図です。実際の段丘は三段だけではなく、川沿いの低地や谷も入り組んでいます。町名だけで個々の土地の地形は決まりません。

参考:郷土誌かすがい78号「段丘の町・春日井」を歩く

川沿いの町には、水と暮らしてきた時間がある

上条・下条、松河戸など、庄内川に近い地域には古くからの暮らしの歴史があります。市の沿革も、上条・下条という地名を、古代の土地の区分の名残りと考えられるものとして紹介しています。

川の水は田畑を潤し、人の生活を支えてきました。一方、洪水への備えも必要でした。川は「便利なもの」か「危ないもの」かのどちらか一方ではなく、生活するうえで付き合い続ける相手だったのでしょう。

参考:春日井市「沿革、位置・面積」

今、家や道路が新しくなっていても、その場所で人が暮らしてきた時間まで新しいわけではありません。熊野桜佐の区画整理に伴う発掘調査では、縄文時代などからの集落の跡が確認されました。新しい街づくりの途中で、昔の暮らしが姿を現したのです。

参考:郷土誌かすがい78号「桜佐下五反田遺跡の発掘調査」

同じ川沿いでも、昔の川筋や小さな高低差は場所によって違います。古い地図と今の地図を見比べることも、その場所の暮らしの変化を知る手がかりになります。

用水の水が来るかどうかが、家族の暮らしを左右した

今は住宅が並ぶ平らな土地にも、かつて農地を広げようとした人たちがいました。江戸時代初め、味鋺原から春日井原へ通した木曽街道の周辺には、まだ荒れ地が残っていたと郷土誌は伝えています。広い土地があっても、水がなければ田んぼにはできませんでした。

参考:郷土誌かすがい14号「木曽街道1」

そこで整えられた水路の一つが、1664年、江戸時代に開かれた新木津用水です。木曽川の水を春日井へ引き、北から南西へ流れて朝宮で八田川に合流します。水が届くようになると、新しい田畑をつくるために、ほかの地域から移り住む人も出てきました。

ただ、田畑が増えれば、必要な水も増えます。郷土誌は、水が不足した下流の村について、収穫が得られない年があり、日々の食事もヒエやアワなどの穀物が中心だったと記しています。用水の水は、家族が食べていくための水でもあったのです。

明治時代の改修計画では、工事に人手を出すうえに費用も負担することになり、村の中で意見が割れ、計画が進まなかったこともありました。水を増やしたいという願いが同じでも、目の前の出費や働き手の負担は重い。用水の歴史には、工事の技術とともに、人どうしの難しい話し合いも残っています。

参考:郷土誌かすがい15号「新木津用水改修小史」

ガル太ガル太

水路ができたら、それでずっと安心だったわけじゃないんだ。

おカンおカン

田んぼが増えると、必要な水も増えるからね。今は住宅地を流れとるけど、昔はこの水で家族の生活を支えとったんよ。

人が選んだ道が、街をつないだ

名古屋と東濃方面をつないだ下街道は、勝川から鳥居松、坂下、内津へと続きました。今の県道内津勝川線などに重なる道筋です。現在の国道19号そのものと、同じ道ではありません。

面白いのは、1624年以降、この道で商人の荷物を運ぶことが禁止されたという話です。競合する街道の宿場との利害があったためですが、近道としての下街道の役割はなくならず、公用の行き来もありました。道の使いやすさと、制度上の都合は、必ずしも一致しなかったのです。

参考:郷土誌かすがい57号「下街道の武士通行」

だから東部をひとまとめに「戦後、新しく人が住み始めた場所」とは言えません。坂下・内津などの古い道沿いの町と、後から造成されたニュータウンでは、街の成り立ちが違います。

田畑のある土地が、工場で働く場所になった

昭和の戦争の時代には、土地の使われ方が大きく変わります。1938年、昭和13年に鳥居松村が軍の工場の建設地に決まると、土地が買収され、借りた農地を耕していた多くの人が、その土地を離れることになりました。

同じ場所が田畑から工場に変わることは、そこで暮らす人にとって、仕事や生活の基盤が変わることでもありました。戦後、鳥居松工廠の跡地には王子製紙の工場が誘致され、春日井は工業都市としても歩んでいきます。

参考:郷土誌かすがい25号「工廠」

工場や鉄道が街を変えた経緯は、「春日井市の歴史」の記事で紹介しています。

丘の上に、通勤と子育ての暮らしをつくる

戦後、名古屋などで働く人が増えると、家族で住める住宅を数多く用意する必要が生まれました。その受け皿の一つになったのが、高蔵寺ニュータウンです。

選ばれたのは、まとまった丘陵があり、中央線や愛知用水に近い場所でした。家が増えれば、通勤の足も、水道の水も欠かせません。住宅地として開発する条件が、ここにはそろっていたのです。丘の谷あいには田畑やため池もあり、藤山池・高森池・石尾池などの名は、後の地区名にも使われました。

1968年、昭和43年に最初の入居が始まると、藤山台では小学校やスーパーが開かれ、高蔵寺駅と住宅地を結ぶバスも走り始めました。1976年にはサンマルシェが開業します。住む家とともに、通勤、通学、毎日の買い物をする場所が整っていきました。

参考:春日井市「高蔵寺ニュータウンの概要」

緑道が車道と別に続くのには、計画上の理由がある

UR都市機構の公式説明には、車は谷筋、人は尾根筋を基本に道路を配置した、とあります。尾根は丘の高い部分が続くところ、谷筋はその間の低いところです。もともとの地形を生かしながら、歩く人と車が通る道を分ける考え方でした。

尾根に歩く道、谷に車の道を分ける計画尾根:歩く道尾根:歩く道谷:車の道
歩く人の道
緑道や歩行者専用道路を配置
車の道
谷筋を生かして幹線道路を配置
UR都市機構が説明する計画の基本を図にしたものです。全ての道路がこの通りに造られたことを示す図ではありません。

例えば、通学する子どもが車道とは別の道を歩けること。住宅の近くから緑道を通って移動できること。道を分けた計画は、住む人の毎日の動きに関わっています。

参考:UR都市機構「ニュータウンの取組み」高蔵寺地区

一方、商業施設を中心部に集める計画では、家から買い物先まで距離がある場所も生まれます。市の2021年の計画でも、住宅地の静かさを保つ一方、身近な買い物先や移動手段をどう確保するかが課題として挙げられています。整った街にも、暮らし方によって便利な面と負担になる面があるのです。

参考:高蔵寺リ・ニュータウン計画2021–2030 第3章

ガル太ガル太

緑道があるから、どこへ行くにも楽、とは限らないんだね。

おカンおカン

そうやね。通学の道として見るのと、重い買い物袋を持って帰る道として見るのでは違う。歳を重ねれば、同じ坂の感じ方も変わるやろね。

子どもたちの学校が、世代の集まる場所になった

入居から50年以上が過ぎると、住宅を数多く用意するだけでなく、今ある街をどう使い続けるかも大切になりました。その変化がわかる場所の一つが、藤山台にあります。

かつての藤山台東小学校は、学校の統合後に改修され、2018年に「グルッポふじとう」として開かれました。図書館で本を読み、児童館で子どもが遊び、カフェで一息つく。小学生が通っていた校舎が、幅広い世代の居場所になったのです。

「ふじとう」という名前にも、昔の学校の記憶が残っています。街が新しかったころに必要だった施設を、今の住民の暮らしに合わせて使い直す。高蔵寺ニュータウンの歴史は、家や道路ができたところで終わっていません。

参考:春日井市「グルッポふじとうができるまで」

参考:春日井市・グルッポふじとう施設案内

いつもの道で、昔の暮らしを探してみる

水路や坂、歩く道。その形を見ながら、そこで暮らしてきた人の毎日を想像すると、いつもの景色にも歴史が見えてきます。

住宅地の中を流れる用水と、小さな橋のイメージ

住宅地を流れる用水

今は住宅が並ぶ場所にも、田畑を支えた水路が残っています。新木津用水を見かけたら、家が増える前の景色を想像してみてください。

平らな道から段差を上り、次の平らな土地へ続く街並みのイメージ

平らな道の先の、小さな坂

春日井駅から北へ向かうと、梅ヶ坪交差点付近などに小さな坂があります。昔の川の働きなどでできた段差の上に、今の道や住宅地が広がっています。

丘の緑道が車道をまたぐ、歩く道と車の道を分けた街のイメージ

ニュータウンの緑道と車道

緑道をたどると、車道とは別に歩けるところがあります。学校や買い物先へ向かう道として見ると、丘の街で暮らすための工夫がわかります。

挿絵は風景を説明するイメージです。段丘の位置の参考:郷土誌かすがい78号

川や丘があるだけでは、今の春日井の街並みにはなりませんでした。水を引いて耕す人がいて、工場で働く人がいて、新しい住宅地で暮らしを始める家族がいた。場所ごとの地形と、人々が必要とした暮らしの組み合わせが、街の違いを生んできたのです。

そして今は、昔の学校を地域の居場所として使い続ける人たちがいます。春日井の歴史は、昔できたものを眺めるだけでなく、今の暮らしに合わせて街を使い直していくところにも続いています。

ガル太ガル太

昔の学校で、今は小さい子が遊んだり、大人が本を読んだりできるんだね。

おカンおカン

子どもが学ぶ場所から、いろんな世代が集まる場所になったんやね。街の歴史って、建物ができた年だけでは終わらんのよ。

住まいや土地について気になることがある方は、春日井シティ不動産にご相談ください。

参考にした資料を見る
企画:山本直嗣(春日井シティ不動産株式会社)
編集:春日井シティ不動産マガジン

資料確認:2026年11月5日。市の郷土誌・公的資料をもとに、街並みと暮らしとのつながりを編集しました。図解は地形や計画の考え方を示す模式図で、個々の土地の地盤・災害リスクを判定するものではありません。

代表紹介・会社案内
山本直嗣
山本直嗣
春日井シティ不動産 代表
春日井シティ不動産マガジンの編集長です。春日井で育ち、柏原中学校・名古屋市立北高校・近畿大学を卒業後、マンション販売・売買仲介会社を経て、2005年に創業。不動産業歴30年。現在は、不動産の売買・買取・賃貸・管理を扱っています。趣味はラグビー。「春日井の不動産や暮らしのことなら、シティマガを見れば分かる」。そんなサイトを目指し、日々の仕事で得た経験をもとに、不動産の知識や相場、地域情報、身近な出来事などを発信しています。
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