春日井市の歴史|古墳・街道から名古屋のベッドタウンへ
春日井の歴史を、暮らしから読む
春日井には、なぜ名古屋へ通う人が多く住んでいるのでしょう。大きく変わったのは戦後です。名古屋などの都市で働く人が増えるなか、その近くに多くの住宅が必要になり、春日井にも新しい住宅地がつくられていきました。
それ以前、江戸時代のこの地域では、田畑を耕し、街道沿いで商いをする暮らしがありました。明治時代に鉄道が通り、昭和には大きな工場やニュータウンができます。いつ、何が変わり、人々はどんな生活を始めたのか。順にたどると、見慣れた春日井の景色にも、違う一面が見えてきます。
ガル太春日井って、名古屋に通いやすいから家が増えたんでしょ。昔からそうだったの?
おカン今の姿になったのは、長い歴史の中では最近のことよ。家が建つ前、その土地で何をして暮らしていたのかも見てみよう。
春日井の歴史を、年表で見てみる
春日井市ができたのは1943年です。でも、この土地には、そのずっと前から人が暮らしていました。
味美二子山古墳がつくられる。今の二子山公園で見られる、昔の有力者のお墓。
用水を整えて田畑を増やす。下街道では、人や品物が行き来する。
明治33年。中央線の名古屋〜多治見間が開通し、勝川・高蔵寺を鉄道が結ぶ。
昭和18年。戦時下、4町村が合併して春日井市が誕生。
昭和27年。王子製紙春日井工場が操業を始める。
昭和33年。高蔵寺町・坂下町が春日井市に加わる。
昭和43年。高蔵寺ニュータウンで入居が始まる。
各年の出典は、以下の本文に掲載しています。
古代〜江戸時代|田畑と街道のある地域だった
二子山公園の古墳は、約1500年前のお墓
味美地区の二子山公園には、味美二子山古墳があります。古墳とは、昔の有力者のためにつくられた大きなお墓です。この古墳は6世紀初めごろにつくられたと考えられ、長さは94メートルあります。
新しい住宅地が多い春日井にも、約1500年前からの人の営みが残っているのです。市の歴史と、この土地に人が暮らしてきた歴史は、長さが違います。
江戸時代、田畑を増やすには「水」が必要だった
今の春日井市にあたる地域には、江戸時代、田畑を耕す村がありました。ただ、土地があれば、すぐ米をつくれるわけではありません。田んぼには水が必要です。
そこで整えられたのが「用水」です。川などから農業に使う水を引くための水路で、1664年に開かれた新木津用水も、新しい田畑をつくる仕事を支えました。
水が届くかどうかは、収穫や家族の生活に関わります。田畑が増えると水の取り合いも起こり、後の改修では、村ごとに水の分け方や費用を話し合う必要もありました。いつも渡っている用水にも、人が暮らすための工夫と苦労があったのです。
下街道は、名古屋と東濃方面を結ぶ道
鉄道がない時代、人も品物も、道を通って移動しました。名古屋と、多治見や土岐などがある、岐阜県の東濃地方を結んだ道の一つが「下街道」です。勝川、坂下、内津などを通り、道沿いでは商いも営まれていました。
この道筋は、今の県道内津勝川線などにも重なります。現在の国道19号とは別に、昔から人の行き来を支えてきた道があるのです。
1900年|名古屋と鉄道でつながった
明治時代になると、移動の方法が大きく変わります。1900年、現在のJR中央線につながる鉄道の、名古屋〜多治見間が開通しました。勝川や高蔵寺が鉄道で結ばれ、名古屋へ行く道に、列車という選択肢が加わります。
ただし、今の駅が全部そろっていたわけではありません。現在のJR春日井駅ができたのは1927年です。開業時の名前は「鳥居松駅」で、1946年に春日井駅へと変わりました。
名古屋へ通える鉄道は、後に住宅地が広がる土台の一つになります。でも、線路ができたとたん、周りが今のような住宅地に変わったわけではありません。人が移り住むには、家や道路、水道、学校なども必要でした。
戦中・戦後|亜炭を掘り、工場で働いた
亜炭は、地面から掘り出して使った燃料
高蔵寺周辺には、住宅地とは違う、もう一つの歴史があります。高蔵寺・出川・松本・潮見坂一帯では、かつて「亜炭(あたん)」が掘られていました。
亜炭は石炭の仲間です。地面から掘り出し、燃やして暖房などに使う燃料でした。燃料が足りなかった戦中・戦後には、この地域でも採掘が行われました。
その後、使われる燃料が変わり、昭和40年代(1965〜74年)までに鉱山は閉じられました。今は住宅地として知っている地域にも、地下で燃料を掘り出す仕事をしていた人たちがいたのです。
ガル太高蔵寺って団地のイメージだったけど、燃料を掘る仕事もあったんだ。
おカン今の景色からは想像しにくいね。同じ地域でも、家が増える前には、別の仕事と暮らしがあったんや。
1943年、戦争のさなかに春日井市が誕生
この地域には、鳥居松工廠・鷹来工廠など、軍需施設も置かれていました。「軍需」とは、戦争に使うものに関わること。「工廠(こうしょう)」は、軍の工場です。
こうした軍需産業の発展を背景に、1943年、勝川町・鳥居松村・篠木村・鷹来村が合併し、春日井市ができました。名古屋へ通う人の住宅都市として知られる今とは、違う時代の出発でした。
1952年、紙をつくる大きな工場が動き始める
戦争が終わった後の転機の一つが、王子製紙春日井工場です。1950年に工場を迎える動きが進み、1952年に操業が始まりました。
春日井は、家が増えた街であると同時に、工場で働く人たちの街でもあります。名古屋の職場へ向かう人もいれば、市内の工場へ向かう人もいる。仕事の場所が違えば、毎日の生活も違ってきます。
1968年|新しい街に、家族が移り住んだ
名古屋で働く人が増え、近くに住まいが必要になった
戦後の1950年代半ばから1970年代初め、日本では産業が急速に発展しました。「高度経済成長」と呼ばれる時代です。都市で働く人が増えると、その人たちと家族が住む家も必要になりました。
名古屋の隣にあり、中央線が通る春日井にも、住宅地が広がっていきます。1964年には名古屋〜高蔵寺間の「複線化」が完了しました。線路を2本にして、上下の列車が行き来しやすくする工事です。
その流れの中で計画された大きな住宅地が、高蔵寺ニュータウンです。住宅や街を整備する公的な組織「日本住宅公団」が開発を進め、1968年に入居が始まりました。
家と一緒に、水道・学校・店・公園をつくる
ニュータウンとは、住宅だけでなく、生活に必要な施設も計画してつくる新しい街です。高蔵寺では、丘の広がる土地に住宅を建て、学校や店、公園なども整えていきました。
1968年5月には、高蔵寺浄水場から水が送られるようになり、藤山台への入居と同時にバスも走り始めました。新しい家ができても、水が出ず、買い物や通学ができなければ暮らせません。家の外の生活も、一緒につくっていたのです。
ニュータウンの中には鉄道駅がありません。バスなどで高蔵寺駅に出て、列車で名古屋の職場や学校へ向かう。丘の上の住まいと駅を行き来することも、ここでの毎日になりました。
2DKは、当時の新しい暮らし方だった
今では古い団地でよく見る「2DK」という間取り。当時、公団住宅が広めていたのは、食べる場所と寝る場所を分ける住まい方でした。DKは、食事をする場所と台所を一緒にした部屋のことです。
食事の後に片付けて布団を敷く生活から、食べる場所と寝る場所を分ける生活へ。ステンレスの流し台なども、新しい暮らしを支える設備でした。これは高蔵寺だけでなく、当時の公団住宅に共通する背景です。
ガル太2DKって、今なら古い間取りだと思ってしまうけど。それが新しかったの?
おカン今は普通に思えることも、当時は新しい暮らし方だったんやね。部屋の広さだけで比べると、見えてこない話や。
当時を振り返る住民団体への取材記事には、公団住宅の家賃は高めで、名古屋の大きな会社などに勤める比較的裕福な人が多かった、という回想も残っています。
街には、賃貸の団地だけでなく、分譲の集合住宅や戸建ての宅地も用意されました。家を借りる人、買う人、建てる人。新しい住まいで家族の生活を始める人たちが集まってきたのです。
新しく移り住んだ人と、昔から暮らす人が知り合う機会も必要になりました。1977年に始まった春日井まつりには、新旧の住民が交流する場をつくろうという背景もあります。[市民文化財団の記録]
資料:市の住生活基本計画・街ができた経緯/UR都市機構のニュータウン解説/市の高蔵寺ニュータウン概要/愛知県の高蔵寺浄水場解説/UR都市機構・台所と居室の歴史/2016年の住民団体への取材記事
名古屋の隣でも、街の育ち方は違う
近くの街と比べると、春日井の特徴も分かります。どの街も名古屋に近いのに、そこで盛んだった仕事や、住宅地が増えた時代には違いがあります。
小牧|工場と、遠くへつながる交通
工場を迎える取り組みや、高速道路・空港とのつながりが発展を支えてきました。一方で、桃花台ニュータウンのような大きな住宅地もあります。働く場所と住む場所がともに増えた点は、春日井とも重なります。
小牧市の概要 →瀬戸|焼き物の仕事とともに続く暮らし
瀬戸は、陶磁器の産地として発展してきた街です。窯で焼き物をつくり、品物を商う仕事が、長い間、人の暮らしと結び付いてきました。
名古屋市博物館の瀬戸染付解説 →守山・志段味|後の時代にも、新しい住宅地ができた
志段味は名古屋市守山区の地域です。1980〜90年代には区画整理などの計画が進みました。高蔵寺ニュータウンへの入居が始まった後にも、名古屋市内で新しい街づくりが続いてきました。
名古屋市の志段味地区の解説 →春日井は、一つの仕事や一つの住宅地だけでは語れない
春日井には、古くからの村や街道、工場のある地域、駅の近くの住宅地、丘の上のニュータウンがあります。同じ市内でも、暮らす場所によって思い浮かべる街の姿が違うのは、その地域ができた経緯も違うからでしょう。
鉄道も、JR中央線だけではありません。市の西側には名鉄小牧線が通り、小牧・犬山方面や名古屋方面につながります。2003年には地下鉄上飯田線との直通運転が始まり、名古屋の都心へ向かいやすくなりました。ほかに城北線と、高蔵寺駅に乗り入れる愛知環状鉄道もあります。
2020年の国勢調査では、春日井から名古屋へ通勤・通学する人は約4万1千人。一方、名古屋から春日井へ来る人も約1万6千人いました。名古屋へ通いやすい住宅都市であり、市内にも働く場所や学ぶ場所がある街です。
桃花台から高蔵寺へ、鉄道が延びる計画もあった
小牧市の桃花台線、通称ピーチライナーは、小牧駅と桃花台ニュータウンを結んだ鉄道です。高蔵寺駅まで延ばす計画もありましたが、建設費などを理由に実現しませんでした。運行していた区間も、2006年9月末に運行を終えています。
愛知県は、利用者が伸びなかった背景に、人口の伸び悩み、自動車利用の拡大、JR中央線が便利になったことなどを挙げています。住宅地で暮らす人にとって、職場や学校へどう通えるかは、家と同じように大切な条件だったのです。
自分の家族は、なぜ春日井に住んだのだろう
昔からこの土地に暮らす家族もいれば、仕事のために来た家族、家を買って移り住んだ家族もいます。春日井市の歴史は、そうした一つ一つの家族の話ともつながっています。
ガル太帰ったら、なんで春日井に住み始めたのか聞いてみようかな。
おカン年表には載っていない話が聞けるかもしれんね。家を決めたときの苦労話まで始まったら、ちょっと長くなるかもよ。
いつも渡る用水、見慣れた工場、団地へ続く坂道。そこにどんな仕事や生活があったのかを知ると、普段の道を歩く時間も、少し面白くなりそうです。


